週末お気楽フォトグラファーにしては、結構な数になってきたカメラやレンズ。週末フォトグラファーといっても、写真を撮絵雨することが目的でない外出も多いものです。そうするとなかなかカメラの出番はなくなります。本当にお気楽フォトグラファーであれば、一眼レフのガッチリしたカメラでなくてもiPhonで、コンパクトデジカメで気楽に撮影すればいいわけです。そうでなければ週末お気楽フォトグラファーも本末転倒です。
現像された写真は大地の表面
創造的な表現はその人の個性、感性、技術、考え方など様々なものを引き下げて人の目に映ります。その様々なものとは何かといえば、これまでに表現の出し手が目にしてきた、耳にしてきた、手にしてきた、考えてきた、練習したことが、今回は「これとこれねっ!」とピックアップされているわけではなく、大地の下には何千年も積み重ねた地層のように、数千年の時を経た大樹の年輪のように、今見える一番上の部分のその下であるはずです。地層や年輪は断面を切り出して初めてその積み重ねの多さを目にすることができますが、大樹の場合は切り倒されるというそれにとっての「死」を以ってしか知る由もありません。
写真の世界はデジタルへの進出でArtisticな表現が暗室の工程を経ずにできるようになりました。instagramを使えば練りに練って現像された写真が簡単にできますが、それにしてもinstagramを使ってみた、instagramで気に入る現像ができるように練習したという、気がつかないところで地層は積み重ねられているわけです。
撮影は観察
一方で撮られるものはどうでしょうか。街並み、いわゆるスナップショットの場合、何気ない写真がとても印象強くみえるものもありますし、本当にただシャッターボタンを押しただけというものまで、ハードディスクの写真フォルダは玉石混交です。そんな玉石混交なディスクのカメラロールを眺めていると、これはいいなと感じる写真はその場所、場面の撮影枚数が格段に多いことに気がつきました。名古屋のあの街の、あの場所の写真がとにかく多い。1回の撮影でたくさんとったということではない。いろんな日、いろんなカメラ、いろんな方角から、時にはいろんな色でとにかくたくさん撮影されている。
コンテストに応募することを目標に撮影していたことももちろんあるが、あの場所を撮影していた時はどちらかというとカメラを構えてシャッターを押すというよりも、観察していたといったほうがしっくりとくる。ライトアップの変わり目、人の動き、そこに自分の気分を加えて。
時には撮影する場所を変えてみたりしながら、その全体を眺めてみたり。ただし、場所を変えただけではうまくいかない。そこに通い続けなければなかなか観察はうまくいかないものだ。
そのような感じで昨年の11月ぐらいからずっと撮影してきた名古屋のオアシス21。おかげさまでコンテストで佳作に選んでいただけました。
会社の人事異動でオアシス21を気楽に歩くことはできなくなってしまいましたが、田舎者が都会へ出るときに必ず通りがかるところにあるので、これからも観察を続けていこうと思います。
きっかけを与えてくれた、大学の後輩が主催している写真サークル写步ろ。そのメンバーもたくさん入賞しています。みなさん、おめでとう!
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