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子どもの声が騒音に規定されている事実

この記事を読んでビックリしました。

「子供の声」を騒音の対象外にすべきか 東京都、条例改正の検討を開始

http://www.huffingtonpost.jp/2014/10/09/voice-of-children-noise-environmental-regulations_n_5963116.html

声は音か?

声とは何でしょうか。あえて辞書を引かずに考えてみると、生物、主に動物が口から発する音といえるでしょう。

音とは何でしょうか。空気の振動が耳の鼓膜にあたって何かが聞こえる、という現象といえるでしょう。

どうやら、声は音であるようです。

騒音とは何か

文字をそのまま読み取れば、騒々しい音となるでしょう。

騒々しいとは何か

何やら人がワサワサしている。ゴチャゴチャしている。

心地よくない音が耳に入ってくる。

見た目にも、聞き心地も、またそれらを総合していわゆる気分を不快にするものいえるでしょう。

不快を、少なくともそうではない状態にするために

人は、こうあってほしいと思っていることが実現できないものに、不快、心地悪さを感じるものです。そして、こうあってほしいと願うことは万人に共通ではありません。そこで摩擦が生じ、摩擦で生じた熱を冷ますためにコミュニケーションが生まれます。そのコミュニケーションで解決(お互いの妥協を含めて)できなければ、その人たちは断絶するだけです。

しかし、断絶できない関係が、人間という営みを行っている以上はついてまわります。自分と近所の関係、自分と会社の同僚の関係、自分と社会の関係。

社会からの圧迫にアジテートすることは必要です。それは不満の噴出ではなくて、カイゼンを求めることであるからです。しかしそれは、自分も含めたみんながいい明日を求めることを前提としているべきです。エゴによるアジテートは、単なるわがままにすぎません。

なぜ不快に感じるのか

ある人にとって心地よいことが、ある人にとっては不快なことかもしれません。小さな男の子と女の子が仲良く話をしているのを微笑ましく思える人もいれば、その話し声が耳について仕方がないという人もいます。

どういうときに不快に感じるのでしょうか。

それは、自分の基準で決められた状態に周囲がなっていないときに、不快に感じるといえそうです。

自分の家は、静かで穏やかな時間が流れなくてはならない。

この基準は否定されるものではありません。誰だって我が家では穏やかな時間を過ごしたいものです。家の目の前に大きな音を発生させる工場ができそうだというときには、それは心地よくないものです。それは存分に反対の声をあげればよいでしょう。そもそも閑静な住宅街に工場を建てようというその人の基準が、その土地の周囲とマッチしていないわけですから。

ここでの話題は、子どもの声もそのようなその土地の周囲とマッチしないという状況はありえるのか、です。

確かに、図書館で子どもたちが騒いでいたら、ここは静かにしていなくてはならない場所だよ、と教えてあげることが、その子どもたちが知らない大人たちがやるべきことです。最近ではそれを変質者と扱われる向きもあるようですが…。

しかし、この話題はそもそも子どもたちが集まったときの音が、騒音になって、かつ規制されているという事実です。

既に、子どもたちの声が騒音にしてされているのです。

発展途上にある子どもたちは、様々なことをみて思ったことを口にして学習していきます。ひょっとしたら、これは大人でも同じかもしれません。ここでの違いは、大人は静かにしているべきところかどうかを判断することができますが、子どもたちはまだそこまで判断できるまでになっていないということだけです。ガヤガヤしながら物事を知り、そのうちここはガヤガヤしてはいけないところだと学んでいくのです。

子どもたちが集まって、ガヤガヤしながら学び成長していく過程を、騒音であると他の不快に感じる音の発生要因と一括りにしてしまうことは、世の中が子どもを否定しているような気がしてなりません。

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