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【長文】2013年を振り返って

【長文】2013年を振り返って

2013年最後の日ということで何をやっていたかというと、先日から始めている書類の整理。捨てるには忍びないけど場所をとる、というものをスキャナを購入してイメージ化しています。整理毎は何度やってもそれを手にしたときに、物思いに耽ってしまって結局整理が終わりきらなかったというものです。これからはEvernoteで読めるようにしたり、そこまでじゃないかなというものはGoogle DriveやNASにバックアップをとって、いつまでも大切にしていきたいと思います。スキャナがこれほど手に入りやすくなるのがこんなに早く来るのであるのがわかっていれば、数年前に整理したものも同様にしたものですが、やってしまったことは取り返すことはできません。

振り返ってなんていってるけど、本当はあわてて思い出してるんだろ?

今、振り返ってというタイトルの記事を書いていて、手帳や以前のブログ等をパラパラッと眺めてみて何が自分に残ったんだろうということをしきりに考えている。自分の骨身になったものは何かあったか。

ブクログをみればそれなりな数の本を読んでいるし、経験がない案件が多かったから関連することについての学習はした。本は能動的に選択して購入して読んでいるわけだが、仕事は能動的な部分もあるが、どちらかというと「やむを得ず」という感の方が強いような気がする。もちろん、やむを得ずでもそれについては積極的に関わったが、やむを得ずの案件がなければ、ただ流れて過ぎていったのかなと思うとぞっとする。

昨年は1級船舶の免許を取りにいったり、単車の免許をとったりと仕事以外のことに対してもう少し積極的だったような気がする。そもそも、これらが2013年の振り返りをしていて、案外と速い段階で出てくること自体がどうなのだろう。これらは2012年に起ったことであり、もうすでに1年以上経過していることだが、記憶の新しい部分に属している。とすれば、2013年は一体なにをやっていたのか。

仕事しかやってませんでしたと認めてしまえっ!

思い出されることは仕事のことばかりで、それ以外のことはあまり思い出されることが見当たらない。仕事は8割のことはうまくいったと思うが、残りの2割が一時期仕事の8割以上を占めることが数度あり、8:2のパレートの法則は感覚的に間違いないような気がいましている。

以前にも書いたが、24時間のうち10時間〜12時間を会社に拘束され(移動時間含む)、睡眠時間を6時間としておつりは6時間〜8時間あるのだ。では毎日自分で使える6時間〜8時間を年間とおせば、中間の7時間で換算して2,555時間となる。24時間で割ってやるとざっと106日分。実に年間日数の1/3にもなるのだ。1年間通して1/3の時間の月日を使ったにも関わらず、何も残らないという生き方ははたしていい人生なのだろうか。幸か不幸か、私は家人を持たない立場であるため、その時間がほぼマルマル自分のものだ。

当然、家に帰ってから調べ物をしたりしていることが多いので、仕事に割いた時間は更に長いのが事実だろう。それにしても106日という日数から考えれば、それほど割引かれるものではない。

何かをやっていたのだが、如何せんその何かが覚えていないのだ。

本心は忘れたいんだろ?だったら残しておけよっ!

moleskin

よく、メモをしないから忘れるんだということを聞くが僕はそうは思っていない。忘れるために、何かに書くなり何なりの手段で残さなければならないのだ。どんなに記憶がいい人だって、春夏秋冬でそれぞれ印象に残っていることを述べよといわれて、上述した時間の1/4を割いたのだといえるほどの説明をパッと具体的にできる人はそれほど多くないはずだ。なぜならば、人間はどんどん忘れていく生き物だからである。よほどの好印象がない限り、すぐにその頃何をどんなふうにやっていたかなんていうのは覚えていられないのだ。結局目に見える形で何かを残しておかないと、具体的には覚えていられない。いや、厳密には覚えているかもしれないが、覚えていることを問われたときすぐさま整理できるほど人間は器用ではないのだ。

器用でないということでいえば、集中していたいときに他のことが思い出されて気になってしまうということはままあることだ。例えば稟議書の作成で財務諸表の分析に集中したいときに、締切の近い報告書のことを思い出すような場面を想定しよう。このとき、僕のとる行動(思考)は2パターンだ。まず1つ目に、今なら先に締切の近い報告書を片付けてしまった方がいい(あるいは間に合わない)と判断し、今の仕事を中断してささっと出来上がる報告書を先に片付ける。もう1つはこのまま仕事を継続してもその報告書が締切に間に合うなと考えれば今の仕事を継続する。

締切がまだだいぶ先であったにせよ、集中して作業をしているところで横やりが入るのは相当なストレスだ。なんにせよ、集中が途切らされているからである。肝心なときに何も思い出さない割に、今?っていうときにふと思い出してしまうものなのだ。恐らく潜在意識の中に刷り込まれているいるのだろう。残念なことに僕の潜在意識は僕自身でコントロールができない。

何かに残したら時々かまってやれよっ!

何かをやっているときに、他のことを思い出したくない。だから忘れてしまえよ。だけど、そのまま忘れてしまったら信用問題になるので都合がいいときに思い出させてくれよ。僕は本当に都合のいい人間だと思う。いらぬときに思い出さないように忘れたいと思っていて、一方では今だっていうときに思い出させろといっているからだ。

だからいらないときに思い出さないように、一時的に忘れる必要がある。そこで何かに残すことにした。概ねそれがメモになるだろう。時には静止画だったり動画だったり、あるいはものかもしれない。こういう目にできるようにすることを化体するという。アンティークのコレクションだって、時にはホコリをはたいて風を通し、日陰に干してやらなければものそのものが駄目になってしまうと同時に、収集していたことすらも忘れてしまう。人間関係でも同じで、今はあの女の子とつき合っているんだと意識するのであれば、時にはデートしてあげないと気がついたら???になりかねない。

では、一体いつかまってやればいいのだろうか。そういった扱いに慣れるまではたぶん頻度は高い方がいいのだろう。1つの処理が終わった都度とか、昼休みに入る前、また会社から帰る前など、切れ目でみる方がいいのかもしれない。その処理が想定よりも長引いた際、その想定の修正を他の処理時間へ正しく影響させなければならないからだ。なので休憩する、息をつくときにサラサラッと目に通せばいいのだ。

中途半端なときに、中途半端に思い出さないように、中途半端になっているGTDをしっかりと身につけたい

そう、この一連の流れはDavid Allenが提唱しているGTDGetting Things Done:全部得られる、とでも直訳しようか)から、僕なりにできる部分を取り出してやってみていることだ。私見で恐縮だがGTDの要諦は上述の「かまってやれよ」の部分である(GTDではレビューと表している)。うまいヘタは別として、ノートをとることは小学校から高校を卒業するまでの12年間で一応教えられる。しかし、その使い方は今ひとつ習った覚えがない。

そもそもなんでノートをとるかといえば、後でみて思い出すためである(もちろん、書くという作業で記憶を促すという効果もあると思うが、それは置いておこう)。後でみて、つまり復習を前提に授業が行われているわけだ。ところが、復習の方法も教えてもらった覚えは残念ながら僕にはない。授業はやっておくから好きなようにノートを書いて、復習はみんな自由にやってね、が学校のノートの取り方だ。だから、後でノートを見るという習慣が残念ながらついていない。なので、何か時間的トラブルが起った場合はまず残したもの(ここではノートに統一しよう)をみて、他のものとの調整が必要になる。概ね1つの時間的トラブルは挽回が可能であるケースが多いが、複雑骨折となってくると自分1人の問題ではなくなる。これでは意味がない。

要するに、僕にまずいえることは、やったらやりっ放しにするなということだろう。つまり、書いたらちゃんとその後みろよ、と。そんなのあたり前でしょ?と思われる向きがあるかもしれないが、決してそんなことはないと考える。なぜならば僕の後輩職員をみていると、ノートをとっているものほど、後からそのノートに触れられることがないからである。これはいわゆる、類は友を呼ぶは該当しない。なぜならば、人員は人事部のトップダウンできて当方では全く感知できないからだ。本当に怖いのは強い敵ではなく、弱い味方だということを聞いたことがある。だから同じようなことが自分のチーム内で起きてほしくはない。案件処理の方法をしっかりと身に付け、それを後輩へ伝えていくところまでが僕の仕事になるだろう。

で、最後に来年はどうするわけ?

1年の計は元旦にあり、というが、そんな付け焼き刃で考えた計に大した意味があるとは思えない。もちろんそれをやり切る人もいるだろうが、サラリーマンは1年で切れるようなことを追っているようではやっていられないのだ。毎日が元旦であるかもしれないし、ひょっとしたら毎日が大晦日であってほしいかもしれない。計は365日のうちのたった1日で決められるほど生温いものではない。毎日が計なのだ。

従って、明日の元旦には特に計画をたてることは何もしない。

しかし、毎日が計であるとして今修正が必要だと思われることは、残し方の方法をいろいろ試してみたい、ということだ。基本的には手書きだ。これは変更が不可能である。しかし、手書きは仕事限定だ。仕事以外のことはオンラインが使えるので、そちらの方を試してみたい。冒頭に既述の通り、現在スキャナで書類の整理を行っている。書類の次は写真の整理と後がたたない。

ところが、未だに決定的な方法が見出せていない。最近、梅棹忠夫氏の知的生産の技術 (岩波新書) を読んだ。この本はもっと早く出会いたかった。1969年発行の書籍であるが、全く古くはない。逆に手段が多い昨今、この本によって基礎の基礎を押さえてから様々なツールに手を出した方がいいだろう。そうでないと、ガタガタなOSの上に、高機能なアプリケーションをのせているようなものだ。それではまともに作動しない。

2013年も後1時間程度となった。結局間もなくなるであろう2014年は何をやるのか。元旦の計、といった類いのものでいえば、それは仕事をやるとしかいえない。その中で必要に応じ、新しいことを身につけていきたい。

強いていえば、新しいことを身につけるということに、躊躇することをなくしたい。また、そのプロセスについて、残す方法の1つとして自分のノートだけではなく、このウェブで発信していけたらと思う。その発信でもって、自分の解釈をマッシュアップさせられればよいし、その記事によってどこかの誰かがひょっとして何かの役に立ったと思えていただけたら幸いである。

サラリーマンというものは非常に井の中の蛙であると、最近つとに思う。そこからのサラリーがないと生きていけないという経済的な問題ではなく、考え方、文章の書き方、話し方といったことまでその中のあたり前に気がついたらどっぷり浸かっているのだ。経済的にはこれも契約なので堂々と受け取ればよいと思うが、アイデンティティまでそこにつかる必要は求められていない。であれば、井野中の蛙も、たまには広いところでぴょんぴょん跳ねてみたいと思ってもバチはあたらないだろう。

何かでこの記事を読まれた方、最初から読んでいただいた方は誠にありがとうございました。

サラリーマンは1年で区切れないと書いたわけだが、ここは世間並みに、「よいお年をお迎えください」。

 

 

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